下関幕末維新探訪

歴史年表

1849(嘉永2)年 7月
九州へ渡ろうとする吉田松陰が伊藤静斎宅に宿泊。伊藤静斎は、下関の東本陣伊藤家の当主。2人の交遊は松陰の処刑まで続いた。明治16年(1883)70余歳で没した。
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1853(嘉永6)年 6月3日
ペリー、艦隊を率いて浦賀に入港。
1853(嘉永6)年 6月6日
米艦浦賀に来航につき、長州藩大森に出兵。
1853(嘉永6)年 11月14日
長州藩、相州西南海岸を警備するよう幕命を受け、西浦賀から腰越八王子山にいたる海岸に兵を配する。
1854(嘉永7)年 1月16日
ペリー、再び来航。
1854(嘉永7)年 3月3日
日米和親条約を結ぶ。
1855(安政2)年 4月
関見台に砲台を築く。
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1857(安政4)年
吉田松陰、萩に松下村塾を開く。
1857(安政4)年 11月
亀山砲台を築く。
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1858(安政5)年 6月19日
日米修好通商条約調印。
1859(安政6)年 11月7日
外国船下関に来る。蒸気船1隻西海より入り、9日、東に去る。この頃から外国船が下関に多く来るようになる。
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1859(安政6)年
安政の大獄。橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰ら死刑。
1861(文久元)年 4月7日
萩藩主毛利敬親、海岸を巡視し下関に至る。
1861(文久元)年
壇之浦・前田・長府・下関に砲台を増築する。
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1862(文久2)年 3月14日
久坂玄瑞が白石邸に来る。17日迄。
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1862(文久2)年 7月6日
萩藩が即今攘夷に決定する。
1862(文久2)年 11月28日
小田村文助(楫取素彦)が下関に来る。白石邸にて酒宴。
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1862(文久2)年
福田扇馬が自宅(南之浜)を開放して桜柳亭(長府の松下村塾の様なもの)を開く。
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1863(文久3)年 4月2日
中山忠光、竹崎の白石正一郎邸に来る。
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1863(文久3)年 4月16日
中山忠光、前田砲台を視察。自ら砲台築造を手伝う。
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1863(文久3)年 4月26日
久坂玄瑞等が攘夷決行に備えて、下関(本陣は長泉寺)に来る。
1863(文久3)年 4月29日
中山忠光、白石正一郎邸で久坂ほかと面談する。
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1863(文久3)年 4月
幕府、5月10日を攘夷決行の日と定める。
1863(文久3)年 5月5日
久坂玄瑞らが光明寺に移る(光明寺党)。
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1863(文久3)年 5月10日
米国商船ペンプローク号、関門海峡長府沖に停泊中、下関駐屯の久坂玄瑞ら光明寺党が攘夷決行と、庚申丸・癸亥丸から砲撃する(第1回馬関攘夷戦)。
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1863(文久3)年 5月23日
関門海峡を通過するフランス艦キャンシャン号を壇之浦・杉谷・前田・豊浦などの砲台と庚申丸・癸亥丸から砲撃する(第2回馬関攘夷戦)。
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1863(文久3)年 5月26日
関門海峡を通過するオランダ軍艦メヂューサ号を庚申丸・癸亥丸・壬戌丸。永福寺・壇之浦・前田などの砲台から砲撃する(第3回馬関攘夷戦)。
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1863(文久3)年 6月1日
米軍艦ワイオミング号を砲撃、交戦して壬戌丸・庚申丸が撃沈される(第4回馬関攘夷戦)。
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1863(文久3)年 6月5日
フランス軍艦セミラミス号、タンクレード号の2艦を砲撃。フランス軍、前田村に上陸し砲台を破壊、民家および本陣となっていた慈雲寺を焼く。翌日、長府藩は長府在住の老幼婦女子に避難を命じる(第5回馬関攘夷戦)。
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1863(文久3)年 6月8日
高杉晋作、白石正一郎邸を本陣として奇兵隊を結成(奇兵隊日記では6月6日)。奇兵隊総督となる(6月27日)。
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1863(文久3)年 6月13日
奇兵隊の本陣を白石正一郎邸から阿弥陀寺(現・赤間神宮)に移す。
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1863(文久3)年 6月28日
勝山に城を起工。元治元年(1864)2月1日完工し勝山御殿と称す。
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1863(文久3)年 7月
薩英戦争。
1863(文久3)年 8月16日
奇兵隊(阿弥陀寺に駐屯)と先鋒隊(教法寺に駐屯)が教法寺(赤間町)において衝突する。
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1863(文久3)年 8月
政変起こり、尊攘派公家三条実美ら「七卿」、長州へ下る。
1864(文久4)年 2月1日
勝山御殿の工事がほぼ完了。第13代長府藩主毛利元周ここに移る。
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1864(元治元)年 3月
尊王攘夷運動が激化する中、熊野直介、福田扇馬らが少年教育のために集童場(古江小路の益田宅)を開く。
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1864(元治元)年 6月5日
池田屋事件。
1864(元治元)年 7月19日
蛤御門の変。
1864(元治元)年 7月
長州征討。
1864(元治元)年 8月5日
英・米・仏・蘭の四か国連合艦隊(軍艦17隻)が来襲。長州藩は敗北。
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1864(元治元)年 8月8日
高杉晋作(宍戸刑馬)らが、休戦交渉にあたる。
1864(元治元)年 8月10日
毛利登人(毛利出雲)らが、講和交渉にあたる(講和交渉1回目)。
1864(元治元)年 8月14日
萩藩家老の宍戸備前らが、講和交渉にあたる(講和交渉2回目)。
1864(元治元)年 11月17日
澤宜嘉、錦小路頼徳を除く「五卿」が功山寺に入る。翌年1月14日外浦から大宰府へ船出する。
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1864(元治元)年 12月15日
高杉晋作、長府功山寺で三条実美ら「五卿」と訣別。遊撃隊の高橋熊太郎、石川小五郎、力士隊の伊藤俊輔(伊藤博文)等とともに新地会所(萩藩領)に向かう。武器等を借用。
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奇兵隊回天義挙の地 を見る。
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1864(元治元)年
高杉晋作の発議で攘夷戦争で倒れた人々を祀る招魂場を創設し、場所を新地町岡の原にすることになる。のちの桜山招魂社(現・桜山神社)。
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1865(元治2)年 1月2日
高杉晋作、伊藤俊輔(伊藤博文)らが、再び萩藩新地会所に向かい、挙兵の趣意を宣言する。武器等を借用した。
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萩藩新地会所跡地 を見る。
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1865(元治2)年 1月21日
吉田宰判勘場が襲撃される。
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吉田宰判勘場・御茶屋跡 を見る。
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1865(元治2)年 2月14日
長府藩の青年武士らが報国隊を結成する。
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1865(慶応元)年 4月12日
吉田に奇兵隊が転陣。
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1865(慶応元)年 6月
奇兵隊調練場が開墾。現在は田んぼ(整備し二日後には訓練に励む)。
1865(慶応元)年 閏5月1日
坂本龍馬が下関に来る。
1865(慶応元)年 閏5月6日
龍馬と桂小五郎と時田少輔が下関の城ノ越(南部町)にて薩長和解に向けて会談。
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坂本龍馬、桂小五郎会談の地 を見る。
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1865(慶応元)年 閏5月21日
中岡慎太郎が薩長和解の為下関に来る。
1865(慶応元)年 8月9日
高杉晋作の発案による桜山招魂場が成り、鎮座祭が行われる。
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桜山神社(招魂社) を見る。
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1866(慶応2)年 1月
薩長盟約が締結される。
1866(慶応2)年 4月
長州藩が吉田産米500石を薩摩藩に贈る。
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1866(慶応2)年 6月7日
幕長戦争(四境戦争)。
1866(慶応2)年 6月14日
坂本龍馬、下関に来て留まる。龍馬長薩の間を往来。
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本陣伊藤家跡 を見る。
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1866(慶応2)年 6月17日
小倉口において開戦。高杉晋作ら、関門海峡を渡って小倉兵を破り、田ノ浦、門司を占領する。
1866(慶応2)年 7月3日
再び関門海峡を渡り、大里(北九州市門司)を攻撃する。
1866(慶応2)年 7月27日
長州藩は大里に上陸し、小倉へ進撃する。
1866(慶応2)年 7月
将軍家茂が死没、長州征討を中止する。
1866(慶応2)年 8月1日
幕府軍の本拠小倉城は自ら城を焼く。小笠原壱岐守小倉を出奔す。熊本の兵藩に帰る。
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1866(慶応2)年 9月16日
高杉晋作、姫島(前原沖)にとらわれていた野村望東尼を救出させ下関に迎える。
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高杉晋作と野村望東尼歌碑 を見る。
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1866(慶応2)年 9月
病に冒された高杉晋作は入江和作邸で療養生活に入る。
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入江家跡 を見る。
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1866(慶応2)年 10月
病が進んだ高杉晋作は、桜山招魂場下に建てた小屋(東行庵または捫蝨処)へ移り、療養生活を続ける。
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高杉晋作療養の地 を見る。
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1867(慶応3)年 3月28日
長州藩と小倉藩の間で講和条約書が交わされ、正式に講和が成立する。
1867(慶応3)年 3月
高杉晋作、桜山招魂場下の東行庵(または捫蝨処)から、新地の林算九郎宅離れ座敷に移って療養。
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高杉晋作終焉の地 を見る。
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1867(慶応3)年 4月14日
高杉晋作は新地妙蓮寺前の林算九郎の屋敷で亡くなる。
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高杉晋作終焉の地 を見る。
伊崎周辺 を見る。
1867(慶応3)年 4月16日
高杉晋作の遺骸を、遺言により吉田村清水山(現・東行庵)の地に葬る。
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高杉晋作の墓 を見る。
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1867(慶応3)年 8月
吉田諏訪に陣屋が出来る(定住を視野に入れた。奇兵隊は定住する陣をもたない前提で動いていたが、四境戦争で落ち着いた)。
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奇兵隊陣屋跡 を見る。
吉田周辺 を見る。
1867(慶応3)年 9月
薩・長・芸3藩、討幕を約す。
1867(慶応3)年 10月
討幕の密勅、薩長2藩に下る。大政奉還。
1867(慶応3)年 12月
王政復古の大号令。
1868(明治元.)年 9月8日
明治改元(一世一元の制)。